「海峡の光」 辻仁成

海峡の光 (新潮文庫)

海峡の光 (新潮文庫)

一度心に闇を飼った人間は、もう二度と闇から完璧に解放されることはないのか。
暗雲たる雨雲が低く垂れ込める函館の空を、私は一度も見たことはない。けれどその濁った重い空を、私はよく知っている気がした。連絡船からの流人、吹き荒ぶ潮風、鈍色の空。競馬場からの声援、ネオン揺らめく歓楽街、見上げる函館山。短い陽が降り注ぐ夏、何もかもが雪に覆われる冬、立ちはだかる高壁に遮断された刑務所。監獄の中の小さな世界、砂洲の町の小さな世界、海の向うに広がる世界。拭っても拭っても消えない汚れた油みたいな過去が、どこまでも執拗に付いてくる。
不意に危うく足を取られそうになりながら、それでもごまかすように知らない振りを繰り返す。穏やかな日々を装って、胸に巣食う闇を遣り過ごす。波間に揺れる一瞬の光が胸を掬うけれど、それでも、逃れられないことを知っている。

彼らの過去に沈む深い闇は、私に纏わり付く死と重なって見えた。
一度心に死を飼った人間は、もう二度と死から解放されることはないのかもしれない。