ダライ・ラマに恋して   たかのてるこ

「執着ほど苦痛をもたらすものはない」と仏陀は教えを説きました。




 チベット文化圏では一昔前まで、一夫多妻や一妻多夫という文化があり、男女共に離婚・再婚が複数回あるというのも特別なことではありませんでした。一夫多妻や一妻多夫が生まれた背景には、生活していくうえでの必要性があった為というのがあります。また離婚・再婚といっても、昔は法律に縛られていなかったので、自由に結婚したり離婚したりしていたようです。また自分の年齢がわからない人も多かったためか、女性のほうが20歳も年上などの年の差婚も、珍しいことではありませんでした。
 離婚した際子供を引き取るのは、やはり母親のほうが多いようですが、そこに慰謝料や養育費は発生しません。農業と放牧、自給自足が基盤のチベット文化圏では、子供・人手は多いほうが助かる為です。
 また異母兄弟・異父兄弟、継母・継父に対する悪い感情はなく、それを自然なこととし受け入れ、良い感情・良い関係を築いている場合がほとんどのようです。



 ここまで書くと、何でもありで、良いように捉えすぎていると思うかもしれませんが、これは事実なことなのだと思います。形はどんな関係になろうと、家族は家族であり、その間にある感情は変わらず温かいものであるということです。

 ここで一番感じることは、「そこに特別視がない」ということです。様々な形の家族があることが「普通」であり、その「普通」の中で育つ子供たちは、幸せを感じることこそあれど、そのことを不幸に感じようがないということです。

 このようになった背景には、様々な理由・文化・環境・宗教等が絡み合っているのだと思います。



 ここは日本であり、私たちは日本人であり、私たちも親もその親も日本の文化の中で育ち、その日本の文化・精神の中で生きていくことが普通なのかもしれません。チベットの文化と日本の文化を比較し、その背景を無視してほんの一部だけを取り上げるというのも、正しくはないかもしれません。
 けれど、私はただそのチベットの文化・精神が素敵だなと思いました。その背景にある過酷さも脆さも実感できないし、それを支える強さにも温かさにも触れたことはないけれど。ただ心惹かれて、その両端に触れてみたいと思うばかりだけれど。




 私はよく、淡白だとか情熱がないだとか言われてきました。そうではないと思う反面、そうかもしれないと思う自分がいるのも事実。
 良く言えば、執着がない。悪く言えば、飽きっぽい。
 でもこの本を読んでいて、執着と興味は違うということに、今更気がつきました。「愛情があって興味もあるけれど、執着はない」という思いがあっても、いいんじゃないかと思いました。
 私にも捨てきれない人や物に対する執着があり、思いや考え方に対する執着がある。けれど「これは執着だ」と気付けることだけでも、大事なのだと思います。気付くことで少しだけ、その縛りが緩くなるように思います。



 誰かを説得させる気などさらさらない。意思を持ち大地を裂いて流れる川の流れのように、ただしなやかに進んでいきたい。





ラダック。
行きたいな。
住んでみたいな。


ダライ・ラマに恋して (幻冬舎文庫)

ダライ・ラマに恋して (幻冬舎文庫)