「ヴィタール」 監督・塚本晋也 主演・浅野忠信

 息ができなかった。映画館を出ると、私は息を殺したまま街を歩き続けた。息をすること、足を上げること、そんな動作ひとつひとつがすごくぎこちなかった。すごい。なにがすごいのか、それを言葉で表せなくて、心には何もなく湖のように静まり返っていた。
 私はいつからか、死に対して愛着のようなものを抱くようになっていた。何故人は、死を遠ざけようとするのだろう。人はやがて死ぬ。そのことを私はいとも簡単に受け入れてしまう。
 死とはすべての終わりだろうか。死の先にはなにもないだろうか。私は死ぬことは生きることの一環だと思う。けれど肉体の死と魂の死は同一だろうか。

 塚本晋也監督作品との最初の出会いは、バッレト・バレエである。高校生の頃、暇さえあればひたすら映画を観ていた。観る映画をタイトルだけ決めることも少なくなかった。その時に偶然出会った。そしてその世界の「感覚」に惹かれた。
 今回のヴィタールでもっとも驚くべきことは、多くの人が言うように、沖縄の原色の風景を取り入れたことである。今までの作品のほとんどはモノクロか、そうでなくてもじっとりとした暗い色合いが張り付いてた。しかしヴィタールは都市と解体室を経て、自然に辿り着く。
 そう、やっと辿り着いたかという感じである。鉄の塊である都市の中でうごめく人間、その人間の肉体の官能的優雅さ、そしてその肉体の内部とその先にあるものへ。

 博史は涼子の肉体の臓器のその奥を覗き込み、魂に出会ったのではないだろうか。魂は目に見えるものとしては、存在が確かめられない。しかし博史は涼子の体を解剖することによって涼子の魂と出会い、眼球の中や骨の髄までを愛し、そしてその隅々から涼子の自分への愛を感じたのではないだろうか。
 肉体として確かに存在するものの暗部の小さな穴の中には、すべてを凌駕するこたえがある。博史がそこで見たものを、私はすべて博史の妄想だとは思わない。それは涼子の魂が博史の魂に見させたものだと思う。

 ここまで辿り着いた塚本晋也監督は、次はどこへ向かうのだろうか。ものすごーく楽しみである。エンドロール、暗闇の中でこっこの声が静かに踊るようだった。導かれるまま命の終わりまで、この肉体に魂を強く、そして足の指の爪の先までこの身体を愛したい。